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メイドインアビスを読む。メイドインアビスと”死”について

今日は、メイドインアビスと”死”について書いてみようと思います。

 

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(放送は終了しています)

あなたの意見は間違っていると思われるかも
しれません。それでも、書いてみます。

 

目次

 

 

 


違う、という意見をお持ちなら、ぜひ、コメントをください。

死とは人生の終焉です。それは、人生の長い短いに
関係なく突然やってきます。1つの人生はそこで区切られるのです。

 

メイドインアビス、絶海航は自殺なのか?


メイトインアビスをみて思うのですが、
リコが目指している奈落の底は”死”そのもの
なんですよね。もし、そこにお宝があっても
持って帰ることは絶対にできないのです。

リコの冒険そのものを自殺と考えてもいいのかもしれません。

死に対して積極的に向かっていく冒険が
リコをキラキラと輝かせるのです。

余命宣告を受けて、待ち受ける1年後の死に向けて
果敢に挑戦していくことが生を輝かせるといえる
かもしれません。

いつ来るかわからない死をただ待ちわびるだけの
人は、オースの街で冒険にでないでくすぶっている
人のように思えます。

不遜な言い方になりますが、目と鼻の先に”死”を
ぶら下げられることによって、人生がキラキラと
輝きだすことってあるんじゃないかと思います。

”死”が遠くの出来事で、あたかも他人事のように
思っている人は、人生をただ浪費するだけで
漫然と人生を送ってしまいます。

死を1年後、半年後と区切られることによって
それによって、今までやりたかったことをやろう、
行きたいところにいこう、会いたい人に会いにいこう
と思うようになる気がします。

それが冒険なのだと思います。

リコは目をキラキラさせて、奈落の底=”死”に
向かって行きます。その道中で、運命の少年、レグに
出会います。

深界二層の監視基地では、白笛の不動卿、オーゼン、その弟子の
マルルク、地臥せりと出会います。
不動卿、オーゼンから、リコは自分の出生の秘密を聞かされるのです。

自分が死からの蘇りであるという事実。

深海四層の巨人の盃でタマウガチに襲撃され、猛毒の針が左手に刺さり、
一時は心肺停止状態に陥るものの、ナナチに助けられます。

このナナチとの出会いによって、深海五層の黎明卿、ボンドルドの
ことを知るのです。人を人とも思わない、狂った男、新しい夜明けの

ために、自分自身すら実験台にし、残酷な実験を繰り返します。

こうして、冒険は、新しい出会いを生み、リコをさらに
たくましい探窟家へと成長させるのです。

奈落の底への冒険は、出会いと成長の物語なのです。

つまり、死へと向かうことによって、出会いと成長が
もたらされるのです。これって矛盾していませんか?
結局は死んでしまうのに。

これこそが、生が死で区切られる大きな理由なのだと
思うのです。死があるからこそ、生が輝くのです。

死を意識しない生は、自分が何者かを忘れているみたいに
ぼやっとして、曖昧で時間だけを浪費していきます。

死を意識し、自分が何者なのかを意識するときに初めて
生はその本来の輝きを放ち始めるのです。

メイドインアビスはそういう物語に読めるのです。

 

不死の存在、ミーティ、呪われしもの


その輝きを放つ生と対極にあるのが、不死のミーティ
であり、成れ果ての村の住民なのです。

ミーティにとって、不死は魂を捉える牢獄でしかないのです。

 

死という祝福


最後に、ミーティは、レグの火葬砲によって、不死の檻から
解放されて、本来の死へと帰るのです。不死であるミーティが

レグの火葬砲に焼かれて、天へと帰るシーンは涙ものです。

メイドインアビスという漫画、アニメは、死を考えさせて
くれるアニメとして読めるのです。死に対する不死の存在も
でてきて、ますます、そうした読み方ができる気がします。

みなさんはどうお考えでしょうか?

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ぜひ、よんでください。そして、コメントをください。
コメント、お待ちしています。

では、また。